2014年03月05日

自分のことについて書きます(3)

自分のことシリーズ 第3回目

今回は浪人時代のことを振り返って書きます。

浪人生活というと大学受験生にとっては暗黒の時代の象徴ですが、

1年という長丁場ゆえ前半戦は意外とのんびりと過ぎていくものです。

これからご覧いただくのは今から20年ほど前のお話。

ごくフツーの浪人生が経験した英会話にまつわる鈍臭い一コマです。

少しの間お付き合いください。


初めて話したガイジン

私は大学受験に失敗し浪人生活を余儀なくされることになりました。

よほどZ会(前回参照)が気に入ったのか、

当時では珍しい宅浪(自宅浪人)という手段を選びました。

宅浪生は通常の予備校生と違って、

わりとフレキシブルにスケジュールを立てることができます。

私の場合、週2〜3回は近所のスポーツジムで運動をしていたと記憶しています。

そのジムで私はフィリピン人の若い男性と知り合いました。

彼は優しそうな感じの人でしたが、ほとんど日本語がしゃべれませんでした。

私は、どのような目的で日本に入国したのかも気にせずに

英語がしゃべれる・聞ける

という単なる好奇心だけで彼に近づいて行きました。

今考えると、あまりの危機意識のなさに呆れてしまうというか、

世間知らずの「あまちゃん」でしたね。

でも当時は、スカイプ英会話やカフェ英会話のように格安で簡単に

生の英語に触れる機会というものはなく、

ましてや英会話教室などはレッスン料が高すぎて

学生にとってはまるで高嶺の花でした。

正直なところ、

これは英語を話せるようになるチャンスだ!

と思いました。

一方、相手がどう思ったかは分かりません。


しかし、そんな独りよがりの私の思惑もあっけなく潰えます。

私たちは、初めて会って何となく意気投合したのち、

次回はお互いに時間を合わせてジムに行こう、ということになりました。

当時はフェイスブックはおろか、

携帯電話も電子メールもほとんど普及していなかった時代。

こちらから連絡するときには、相手のポケベル(!)に連絡する約束をして別れました。

後日ジムに行こうと思い立ち、

早速ポケベルに連絡を入れると、間もなく彼から折り返しの電話がありました。

しかし結果は、、、あえなく撃沈。。。

無理もない、当時の私は

英語での電話のやり取りおろか

対面での会話さえも

全くといっていいほど経験のない状態だったので、

電話での意思の疎通が全く成立しませんでした。

みなさんもご承知の通り、

英語での電話のやり取りは、

手振りや表情を交えた対面でのやり取りよりも

はるかに難易度が高いもの。

まるでスキー初心者がいきなり上級者向けコースで滑るようなものです。

その一件があって以降、彼の姿をジムで見かけることは一度もありませんでした。


英検準1級 = 難関国立大入試英語 ??

浪人中にはこんなこともありました。

ある日、私の友人がこう言いました。

「英検準1級を受けてみなよ、語彙レベルは国立大の入学試験と同じぐらいだから。

気分転換になる上に合格すれば資格が取得できるからいいアイデアだと思うよ」


早速、本屋に出向いて過去問題集をペラペラめくっていると、

なるほど、英検の勉強と受験英語はオーバーラップする所があるかもしれない、

と思い、すぐに受験の申し込みをしました。

どのような出題内容だったかはとっくの昔に忘れましたが、

たしか筆記試験は語彙・文法・読解力などに関する選択肢問題だったと思います。

筆記試験を受験してから数週間後、幸運にも合格通知が届きました。

問題は、、、それから数日後に行われた面接試験でした。

今も同じかどうかは分かりませんが、

面接試験はネイティヴスピーカーの試験官により行われ、

最初に簡単な日常会話のやり取り(スモールトーク)が一通り行われたあと、

4コマ漫画を渡され、それをストーリー仕立てにして英語で要約して話すというものでした。

もちろん過去問対策は事前にしっかり行って面接に臨んだものの、

それまで英会話というものをほとんど経験したことのない私にとっては、

脂汗が流れる試練の時間

となりました。

面接室に緊張した面持ちで入った後、

スモールトークの中で試験官から「どこに住んでいるのか」と聞かれ、

当時自分が住んでいた「○○区」の「区」の部分を英語で何というのかを

相当長い時間考えた挙句、何と答えたか覚えていない


という有様でした。

今思えば、分からない言葉があれば自分が分かる言葉に置き換えて話すでしょうし、

そもそも「区」とか訳す必要ないですね(笑)

無論、当時の私にはそんな機転を利かす余裕も、経験値もありませんでした。

結果は、推して知るべし、不合格と相成りました。

ということで、いまだに英検の資格は持っていないのであります。。。

(つづく)


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2014年03月03日

自分のことについて書きます(2)

自分のことシリーズ 第2回目です。

今日は、学生時代(小・中・高)の英語にまつわる話について触れます。

これを読んでいるあなたがもし、私と同年代か上の世代の方ならば、

少なからず似たような経験をされた方はいらっしゃるのではないでしょうかと思います。

また、学生の方や社会人になって間もない方は、

もしかしたらこの文章に年代のギャップというものを感じられるかもしれません。

いずれにせよ、お時間の許す限りご自身の経験と照らし合わせて読んでいただければと思います。


私にとっての英語 − 小学校まで


私は中学に入学するまで、英語とは全く無縁の生活を送っていました。

母親は教育熱心ではありましたが、自分の息子にそれより前の段階から英語を習わせる、

ということにはあまり興味がなかったようです。

おそらく母親の頭の中の中心は息子の中学受験であり、

英語は中学生になってから始めても十分に間に合うものと考えていたのでしょう。

また、今や幼児や小学生向けの英会話教室というものが全国至るところにあり、

関連広告もテレビやインターネットなどで頻繁に見かけますが、

当時(まだ昭和の時代です)はまだそのようなものがどこにでもある

という時代ではなかったように思います。

余談ですが、私には一人娘がいます。

娘が通う幼稚園では週一回アメリカ人教師による英語教室が行われています。

幼児英語教育というものが重視されていることの証でしょう。

もちろん、教室と言っても本格的なものではなく「英語に触れる」という程度のものですが、

いずれにしても私が育った時代などではめったにお目にかかれないことでした。

また、私は小学3年生から4年生にかけて公文式(現:KUMON)に通っていましたが、

ほとんどの生徒が算数をやっていて、英語をやっている人はほとんどいませんでした。

今はどうでしょう、小学生でも算数と英語をセットでやっているお子さんも多いのではないでしょうか。


私にとっての英語 − 中学・高校時代

そういうわけで中学に入ってから英語を習い始めました。

日本の英語教育の問題点はいろいろな所で指摘されていますが、

私が通った中学校も例にもれず

リーディング・ライティング・英文法に比重を置いたカリキュラムでした。

また、英語の授業はすべて日本語による解説で、教師もみな日本人でした。

ただ、他の学校とは若干異なる点が一つあり、

当時としては珍しくLL教室(Language Laboraory)がありました。

そして、生徒は週1回、このLL教室で英語の勉強をすることになっており、

一人一人が自席のオーディオ機器を自由に操作しながら、

NHKのラジオ英会話番組をカセットに録音したり、それを再生したりしていました。

学校の先生が、

「これだけの設備が整っている学校は日本全国でも少ない」

と誇らしげに言っていたことを思い出します。

たかだか20数年前の話ですが、

インターネットや各種機器が普及した今から考えると遠い昔の話のようですね。


英語を勉強する理由 = 受験のため

私にとっての英語とは

「大学受験をクリアするために不可欠なもの」

という位置づけのものでした。

今から考えれば、

よくその程度のことでモチベーションが保てたな、と思います。

要するに、私の青年時代というものは、

良く言えば純粋無垢、悪く言えば世間知らずの未熟なもの

であったと言えます。

しかし、現代のようにインターネットを通じた様々なメディアやゲームなど

ちまたにありとあらゆる情報や娯楽があふれている時代にもし私が育ったならば、

その程度のモチベーションでは到底英語の勉強を続けられなかったように思います。

特に語学の習得というのは初めは基本の繰り返しですから、

勉強することにそれ相応の理由を見いだせなければ長続きしないものです。

実際、私にとっての英語の学習は

何の楽しみや喜びもない

ただ必修科目だからやっている


という無味乾燥なものでした。

このような残念な現象が起きたのは、

日本の英語教育にも問題があったからでないかと思います。

(まあ、ここでは深入りしませんが。)

しかしながら一方で今になって考えると、

この受験英語が私にもたらしたことは、

必ずしも悪いことばかりでありませんでした。

機会があれば、後日詳しく書きたいと思いますが、

学生時代の英語の授業を通して経験した

- 徹底した文法の訓練

- 単語を覚える際に発音記号やアクセントを一緒に書く習慣

が後々になって英語実戦の場で実を結び、

そのおかげで、例えば英語を母国語としない他国の人々が時間が割かねばならないような

努力や時間を省略できたと思っています。

だから、日本の英語教育に対する私の印象は、

必ずしもネガティブなものばかりではありません。


英語に対する壁

話が少し横道にそれましたが、

私が「英語に対する壁」に初めて直面したのは高校2年生のときでした。

正直に申し上げると、それまで学校の英語の成績は中の上くらいでした。

それほど成績が悪くなかったのは、

自分はどちらかというと幼い頃は暗記力がいい方だったからだと思います。

通常、学校の定期テストの出題範囲は原則として授業で習ったことに限られます。

授業でノートをしっかり取り、きちんと復習をすればいい点数を取ることが出来るのです。


しかし、高校2年生になってそろそろ大学受験を意識し始めたとき、

友人の勧めでZ会(増進会)というものを始めました。

これは大学受験向けの通信添削で、

毎月自宅にテスト形式の英語の問題が郵送され、

解答を返送して添削してもらうというものでした。

これの少し変わったところが、

解答作成時にいくら時間をかけても、辞書や参考書を利用してもよいというルールでした。

したがって、問題の難易度もやや難しめに設定されていました。


このZ会によって、それまでの英語に対する私の態度が一気に変わりました。

私が初めてZ会の英文読解問題を眺めたとき、意味の分かる単語がほとんどなかったのです!

したがって、こうした難解な文章を読解するために、

一つ一つ分からない単語を辞書を引かなければならなかったため、

1つの問題を解き終わるのに何時間もかかってしまうことが珍しくありませんでした。

そして、その苦痛に耐えられず途中で投げ出すことも多々ありました。

しかし、幸運にもZ会自体を辞めることはなく、

投げ出しては再開し、再開しては投げ出すことを繰り返しました。

そうして辞書を引き引きの格闘を続けているうちに、

徐々にではありましたが、辞書を引く回数が少なくなっていくことに気がつきました。


短期記憶が長期記憶に変わるときの喜び


人間の記憶というものは、

短期記憶と長期記憶

に分類されるとよく言われますが、

このZ会を始めて、自分の英語力よりも難易度の高い英文にさらされているうちに、

自分の知らなかった単語に様々な場面で出会うようになり、

多くの単語が短期記憶から長期記憶に変わっていくのを実感しました。

この感覚は英語・日本語を問わず

一度は誰もが味わったことがあるはずのものでしょう。

つまり、ある日覚えた言葉がしばらく経ってから全く別の場所で出てきて、

あ、これってこの前も出てきた言葉だな

と思い出す、あの時のことです。

そうした経験を経て言葉が自分のものになっていくのです。

そういうことが頻繁に起きるようになってからは、

生クリームをかき混ぜていくうちに急に固まっていく感覚(分かりますか 笑)

で、英語を読む際に初めから辞書を引くまくるということはほぼ無くなりました。

もちろん、それがストーリーの終わりではありません。

むしろ、始まりなのですが 笑


こうして私は、大学受験に備えていく過程で

英語の文章に対するアレルギーというものが

次第になくなっていった訳です。

(つづく)

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2014年02月24日

自分のことについて書きます(1)

このブログを読んでいただいている方に、

私がどういう人物かを知ってもらうために

自己紹介を兼ねて自分のことを書くことにしました。


生い立ち

私は埼玉県で2人兄弟の次男として誕生し、

幼少期から成人するまで東京の下町で育ちました。

小学校は公立校でしたが、

母親が比較的教育熱心だったこともあり

中学受験をして中高一貫の私立校に進学、

その後、一年間の浪人生活を経て国立大学に進学しました。

大学卒業後は、インフラ系の国内民間企業に事務系社員として就職し

その後10数年が経過して現在に至っています。



父親という存在と英語

サイドバーのプロフィール欄にも少し書きましたが、

私の父親は商社勤務をしており、海外赴任こそなかったものの、

数か月〜半年というスパンでの海外出張を何度もこなしていました。


そんな父の影響もあってか、

学校英語というものにはいくらか親近感というものがあったと記憶しています。

自分も父親のように英語ができるようになりたい、と。


父は家ではとても寡黙な人物で

普段から息子たちと活発なコミュニケーションをとるタイプではありませんでしたが、

母から伝え聞いたところによると、父は若いころから海外に憧れを持っていて、

髪形や服装などで西洋の有名人(ジェームス・ディーンなど)を真似ていたそうです。


そんな父は若くしてガンを患い、私が大学生の時に他界しましたが、

英語が大好きだった父は、

自宅の病床でも絶えずFEN(Far East Network 極東放送局:現AFN)のラジオ番組を

流していました。


そんな父がある日生前にぼそっとこんなことを言っていたのを今でもよく思い出します。

「英語っていくらやっても分からないんだよね」

当時高校生だった私は、父の発したその言葉を何の気なく聞き流しましたが、

父が亡くなってから十年以上も後になってようやく

この言葉の持つ重みを思い知らされました。


父は帰国子女ではありませんでしたが、

確かに、英語を必要とする仕事をやっていました。

父は時折、自宅にあった英文用のタイプライターで文書を作成していました。

父親の周りには外国人の友人が何人もいたことを覚えています。


そんな父が、まるで生涯教育のように自分の英語力を鍛え続け

英語を習得し始めて数十年たってもなお、壁に突き当たっていたという光景は、

仕事上の要請から英会話を数年前から本格的に習い始めた私にとって

絶望に満ちた残酷であると同時に、励ましの言葉でもありました。

(つづく)
posted by 薗田真澄 at 04:41| Comment(0) | プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする